
5代目・吉田忠智が酒蔵を継いだ時、白龍は、福井県内で一番製造石数の少ない小さな小さな酒蔵だった。
東京農業大学と国税局・醸造試験場で酒造りを学んだ6代目蔵元・吉田 智彦は、そこで、とても悔しい思いをした。
小さな酒蔵で田舎だったので、特定名称酒など造られているはずもなく、大手のレギュラー酒と同じものしかなかった。
白龍の顔となる、これが、白龍だ!!と、胸を張れるものがなく、混沌とした日々を過ごしていた。
その様な折、精米をお願いしているパ−ルライス工場のベテラン精米杜氏・横井氏より、『吉田さんとこ、田舎で田んぼは、ぎょうさんあるんやで、山田錦作ったらどうやの。』
衝撃的だった。一筋の光が見えた瞬間だった。
『安心してお酒を飲んでもらうために、恵まれた上志比村の大自然の中で、化学肥料は使わない、農薬も、できるだけ使わないで、米にこだわり、酒米最高峰の山田錦を自ら作り、その米で米の命が生きている旨い酒を造る。』と、決心をした瞬間、平成元年だった。
その当時、山田錦は、最高の酒造好適米で、
兵庫県でしか栽培されていなく、高値で取引されていた。
米の命が生きている
酒は、生きている
酒造りについては学んだものの、米作りは全くの素人だったので、現実は、そんなに甘くなかった。
山田錦は、晩生で背丈が高く台風に弱い。
米粒が大きく、中心に心白があることが山田錦の特徴だが、コシヒカリの様に収量があると、米粒が小さくなり高精白する酒造りには向かない。
土も今まで、化学肥料を使用していたので、土壌改良に3年かかるといわれた。

米作りに挑んだ1年目。
1反あたり3俵しか採れなかった。
それでも、自分が苦労して愛情をもって作った米。その山田錦で造る酒造りは、意気込みが、違った。搾るそのときを思うと、緊張や苦労の中にも楽しみがあった。
晩秋に完全熟成堆肥を土にすき込み寝かせる。
春には田植え。
秋には、刈り取り。
冬から早春にかけて酒造り。
土作りから数えると、一年半の時を超えて初めてできた酒である。
杜氏・蔵人とともに祝杯を挙げた。
しかしながら、酒質は、心から満足のいくものではなかった。
米品質が大切な事を思い知らされた。『酒造りは、土作りから。』

田植え直後の寒波。台風の強風による倒伏。毎年、自然環境は違い、そのつど、肌で米作りを学んだ。
完全熟成堆肥による土壌改良から3年目の春。周りのどこの田んぼより雪解けが早く、黒々とした土が顔を出した。
トラクターで耕すと、おびただしい数のミミズや虫たちが顔を出し
シラサギなどの野鳥が耕す後をついてきた。
土の神様が田に戻ってきたのだ。
その年の秋、1反あたり7俵とれた。
完全熟成堆肥の有機肥料をやることで地力のついた田では、安定した高品質の山田錦を自社栽培することに成功した。
山田錦栽培の成功は、福井県で初めてで、このときから山田錦栽培の北限が福井になった。

酒造りのもう一つの命である仕込水は、国立公園にも指定されている3000M級の山が連なる白山連邦の雪解け水が、何百年もかかって地中を旅してきた柔らかで清冽な伏流水。敷地内にある井戸から直接汲み上げて酒造りに使用している。

奥越前の風土で育った大野杜氏・長田正明と蔵人。地元だからこそ、米・水・気候を知り尽くしている。
理想の酒質のために厳寒の時期、蔵元・杜氏・蔵人は、24時間体制で麹・もろみの世話を続ける。
秒単位での手洗いでの米洗い、米粒が壊れないように肩に担いで運ぶ蒸し米。昔ながらの手造り醸造を造り手の心意気で、頑なに守り続けている。
『米作りから酒造りまで責任を持つ一貫造り』が、白龍の旨さの証だ。
全工程で生産者の顔の見える安心感、その上で、米の旨みを味わえる贅沢さ。
米・水・人と奥越前仕込みです。
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